あけましておめでとうございます.今年もよろしくお願いいたします.今年こそもう少し頻繁に意味のあることを更新できますように.
※以下はしがない文系大学院一年生のいわゆる「ベースボール宗教論争」についての感想文です.当方は大変未熟者で,学問についてとんでもない勘違いをしている可能性が高いです.もし事実誤認,誤解,曲解等発見されましたら,遠慮なく突っ込んでください.
コメントに出てきたが,セイバーメトリクスの話をしていると必ず出てくる宗教論争.要は
「数字で野球のことがわかってたまるかyo!」
「実際に見てやってみる以外野球を知る方法ってないよね」
「お前野球やったことないだろ」
と,どうしても計量的手法を利用した野球分析の意義と存在を認めない人がいる,いうような話である.
この話,社会科学分野における「計量革命」の話を思い起こさせる.
1950年代から60年代,アメリカの社会科学分野において「計量革命」というものが起こったらしい.この時代,コンピュータの改良が進展,各分野における計量的分析が飛躍的に容易になり,これを活用した研究が大流行したという.
計量革命が大流行した背景にはこんな様な考え方があったようだ.「数字は誰が見ても同じ客観的なもので,計量的研究は研究者の偏見や思い違いが入る余地が無い.計量分析はこれまで学問が目指していた中立的研究だ!」
これに対し,70年代に入ると異論が出る.曰く「数字そのものは確かに誰が見ても変わることのないものかもしれない.しかし,あらゆる社会調査の結果は,誰か(そんな調査を行う金と力のある者,権力者など)が何らかの目的をもってはじき出したものである.その時点で,その社会調査を用いた計量分析が客観的であるとはいえない.」
結局上記の議論を経て「では,上記の『誰が何のために』というところを明らかにすることが重要ではないのか」ということになり,計量分析の流行は去っていく.
もちろん,「ベースボール宗教戦争」と言われる論争はこれよりはるか以前の段階である.ちょうど「計量革命」が始まったところか.ただ,上記の話からすれば,1950年代にセイバーメトリクスが始まってもおかしくなかったはずなのだが.ビル・ジェイムズが自分で細かい野球データを数え始めたのが70年代,球団経営に取り入れられたのが90年代.なんでこんなに遅くなるんだか.
もちろん,計量革命の話をそのまま野球に当てはめられるわけでない.
まず,野球ゲームの構造は実社会の構造と比べると極めて単純である.単純な分,定量的に観測できる部分が多い気もするし,実社会のなかで実際に集められるデータなど実社会の大きさから見ればごくわずかだが,野球のデータははるかに集めやすく,多く集まっている.
それに野球の数字の客観性について,疑えば疑えるが,実際問題現在疑っている人を自分はほとんど見たことがない.安打の定義について意見が割れると言うことは「イチローの実質打率がどうたらこうたら」などと言う面倒くさい話をしなければほとんどない.
また,セイバーメトリクスで論じられるのは野球の勝敗や得点等,数字で語れる部分だけであって,別に数字で野球のすべてを語れると主張する人は多分一人もいない.別に計量分析でバッティングの美しさや新庄剛志が日本野球界にもたらした影響について語ろうと言うわけではない.
ただ社会科学研究にも野球で出てくるような論争もあって,
「数字並べただけじゃ現場の実情は絶対わからないよ.リアリティがない」
「じゃあすべての現場見ろっての? それは不可能でしょ? 結局一部しか見られないんだから,絶対に偏見はいるでしょ? だったら同じ基準で並んでる数字見たほうがいいでしょ?」
で,ここから,いかに定性的データと定量的データの両方をうまく関連させつつ活用すれば真実に近づけるか,と言うような話になるわけだ.
これを野球に当てはめると「今現実に目の前で行われている,または自分がやっている野球の試合,シーズンに対し,セイバーメトリクスは何の役に立つのか」ということだと思う.これは大きなテーマで,考えるべきであると思いつつも,今の自分にはとても扱えない.
ともかく自分のもっとも主張したいことは,「野球の見かたはただ一通りではないし,別に自分の見ている見方も,他の誰かが見ている見方も絶対に正しいと言うわけではない.野球の世界と言うものは自分が思っているよりはるかに広いことは認識しておくべきである」ということである.ただ勝敗とか得点とか,数字で語れることであれば数字で語ってもいいのでは,と思うだけだ.
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